2016/07/31 15:47

 超個人的な日常を過ごしています。やりたいことしかやらない。

 食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、
 吸いたい空気を吸って、会いたい人に会う。

 だって、世界は瘡蓋だから。

 ありがたいことに仕事も非常に簡単なものだし、生活をするには問題ない。英語を勉強し、読書を重ね、音の中に深く潜り、まったく誰も知らない(誰も教えてくれない)森に入る準備をしている感じ。僕の前に道はない。自らのマサカリとジュジュで森を拓いて行くのです。森も怪物も幽霊も魔法使いも付き合いも「いいね」も、ばったばったと切り倒して、進むしかないな。なんだか、アドラー心理学みたいな話になってきましたが、詳しくは知りません。興味がないので、あしからず。

 あの夕陽。
 夕陽と海は友達だな。

 「ヴィジョン」について話をしようと思うのです。

 武満徹と大江健三郎に「オペラをつくる」という対談集があります。大江が脚本を書き、武満が音楽を書き、オベラをつくろうという話、そのオベラをつくるまでの過程を対談集にしたもの。「ヴィジョン」の見えるようなオペラにしたいという二人。では、「ヴィジョン」とは何かということを二人はこう定義します。

 世界の今までとこれからのすべてが一瞬でわかるようなもの。

 具体的には、ベトナム戦争時の、有名な全裸で逃げる少女の写真を挙げていました。持った湯のみをばったと落し、小膝叩いてにっこり笑わず・・・・とはこのことですが、この文章を読んだときに本当に「ヴィジョン」を観た、世界の今までとこれからのすべてが一瞬で分かった・・・そんな気がしたのです。

 今までと、これからの、すべてが。

 音楽で、その「ヴィジョン」を持つことが可能だろうか?

 ちなみに「ヴィジョン」という言葉は、英国の詩人で銅版画、ウイリアム・ブレイクに繋がる言葉として二人は話をしています。 残念ながらオペラ自体は完成をしなかったのか、調べても見つかりませんでしたが。

 それを、僕が表現することが出来るのか? 

 今日、芝居を観て来たのです。詳しい感想は差し控えますが、「ヴィジョン」は全く見えなかった。多くの音楽家にも共通していえます。そして過去の僕にも。自民党の公約集のように、うその言葉が滑っているのみ。だから受ける。受けるためにつくったものに興味がわかないのは当たり前。自民党に興味がないのと一緒。その言葉に、その音に「ヴィジョン」はない。勉強不足。僕ならそう思う。

 僕は、ひとりで森を切り拓いて、なんだか今ひとつの、僕なりのだけれど「ヴィジョン」にたどり着いた気がしています。それをどう表現しようかな?

 蝶と鰯の夏。

 例にこれだけで宣伝をすませようとしています。ちゃんとメールくらいは、打つべきなんだろうけれどね、でもまぁ、僕のメッセージはやっぱりこれで完結している。

 ヒロシマの日・ナガサキの日を世界の休日に!!

 あなたもぜひ。
 8月6日と9日、「イカロスの森」でお待ちしています。